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2006年3月30日 (木)

携帯大喜利

NHK携帯大喜利、すべらない、2夜連続の

好企画、二つとも千原Jrが種を撒いていたこと

が実ってきたような企画。いよいよJr.の時代?

太田さんが検索chスペシャルで、”ひとり”の小説

を絶賛してから、本屋で例の小説が山積みです。

最初の3ページ立ち読みしましたが、正直素人です。

(や、もちろんひとりは素人ですが。)。

どこかで読んだような文章がつなぎ合せてあるだけ

です。太田さん、あれを絶賛したのは命取りかも。

まー3ページ以降劇的に面白くなるのかも

しれないですので、また読んでみます。

オーネットコールマンのライブなんて行って

きました。なぜオーネットのフリーソロは

メジャー(長調)感が強いのか、非常に

不思議でした。(無調のフリーソロはどうしても

マイナーっぽく響くものです)。でもあれが彼の

音の美しさの秘密のような気がしますね。

2006年3月29日 (水)

話芸の時代?

以前は千原Jr.などから漏れ聞こえていた芸人の

逸話を話芸として扱う企画が増えてきましたね。

すべらない話が頂点でしょうが。”芸”ですので

商品として再現性があるという前提なので他の

番組で話したことでも、全然O.Kだと思います。

現にすべらないのルールは何度同じ話をしても

すべらなければO.K.としてあり、”芸”のいきまで

高める気概が感じられます。

話芸といえば、最近の太田さんなどは、各番組の

趣旨に関わらず口角泡たててしゃべりまくる

スタイルを確立した感がありますね。あれいつから

あーなったんだろ。大阪系が意味の落差=オチを

重要視するのにくらべ、太田さんのはオチとか意味

内容よりも、全体として美意識を語るスタイルの

ような気がします。自意識の処理の甘い女が

嫌いとか、芸人の自意識の美学とか、そんなの。

小木矢作なんかはまた全然別のスタイルを

作りつつあり、あの人をくった脱構築系の話芸

も今後が楽しみです。

つか、チュートリアル、プチブレイクやね。

真のM1優勝は彼等だったか!

2006年3月26日 (日)

運命の数字

数字もってるタレントで、例のくされ女医が1位で、大木が最下位て!

あの女医が一言でも面白いことを言ったことがあんのか?世間って。

検索:ネット書き込みと、本人の談が違うという、クイズ番組に

あるまじきユルさですが、太田さんが気持ちよく騒いでくれれば

それで良しって感じでしょうか。つか、バク天以降太田さんが

吉本あたりの若手とかとカラムようになったのは、とてもいいですね。

いつまでも孤高の辛口芸人ってのもキツイでしょうから。

2006年3月24日 (金)

ゴールデンて

検索ちゃん:まだスペシャル見きってませんが、深夜がゴールデンで

ぶつかる最大の壁は、ひな壇前列のタレントにあるようですね。

いくら深夜で次課長ががんばっても、黒沢年男やデブ夫人に場所

とられたらどうしようもない。愛エプや幾多の名深夜番組が、こういう

くされゴールデンタレントに破壊されてきたことを、テレビマンたちは

どう考えているんでしょう。

2006年3月22日 (水)

ブログ

なんかご立派なものを作ってもらって。
立派なことを書かなければならない気がします。

テレビウォッチャーには受難の改編シーズンでございます。
ウリナリ社交ダンス部なんて、まだ見たい人がいるんで
しょうか。かなり内村礼賛をしております私ですが、彼等の
功罪の”罪”の部分として、一時”泣き”の手法にはしり、
それが意外に数字を取ったので、かなりバラエティに影響
してしまった点があるんですよね。もともと”ウリナリ”
での部活動は笑かすつもりでやってたのが、結果的に
泣けたというだけだったのに、あからさまに泣かすための
企画を乱立させることになっちゃった。加藤晴彦、柴田理恵
など”泣き専”タレントすら現れるようになった。
あれはきっとデフレ時代の鬱状態の反映だったんだと
思うんだけど。

松本:例の”浜田の金”3連ちゃんですが、3回繰り返した
ことよりも、あの話は世間が”浜田がトリノのレポーターを
やった”ということに関心を持っている、という前提でないと
成立しない話である、ということにむしろ松本の勘のズレを
感じました。世間はそんなに浜田に関心がありません。

WBC:”世界一”というフィクションに、イチローのような
聡明な若者を動かす力がまだあるということに驚いた。
種々の国々の集合のモザイクを、”世界”として認識する
フィクションの力は、もう無いのでは、と考えていた今日
このごろでしたので。
頭悪いと思われている松井のほうが、”なんやかや言っても
メジャーこそが世界”と考えているモダニストであり、
”文明の衝突”論的にアメリカに対してアジア、ラテンを
対立させるイチローが、ポストモダニストであった、
ということが最大の発見ではなかったのか、知らんけど。

つか、ワン(王)ちゃんがあんなに喜んでくれてよかった。

ちょっと台湾に行ってました。地元の超かわいーJazzDrummer
を発見。萌え~でした。

2006年3月18日 (土)

過去の投稿

くりーむなんとかの企画で、テレ朝で働く人100人に好きなテレビ番組は?というアンケートを取ったところ、1位が”タモリ倶楽部”。やはりテレビ見のプロは分かってるんですねー。

ここの投稿で何度もタモリ礼賛しましたが、タモリってーのは
日本初の純粋テレビ芸人であり、テレビ芸とういのは実のところタモリ的手法意外には、開発されてこなかったのでは、とすら思えます。タケシも欽ちゃんもどこか舞台芸人を抜けきれない
ところがあり、ドリフはテレビがメインとはいえ、舞台で観客に
見せることが前提で、それをテレビ中継していただけですし。

テレビの基本スタンスが、舞台と違って”ユルさ”だということ
を看破し(デビュー当時、タモリはテレビで、やたら”張切るな”とか”まとめるな”と”やる気を見せるな”と、共演者たちに言っていた。当時だれもテレビが”ユルイ”ものだとは気づいていなかった。)、さらに”ユルさ”がどのように芸になるのか
を実践したのもこの人である。(例えば、タモリは”ユルさ”が
芸になるには、知力の支えがいることを熟知している。いわゆる
ディレッタンティズムだ。所ジョージもユルさを追求する人だが
知力が決定的に欠けるために、アメリカ萌えになってしまう。)
テレビと舞台の違いを熟知し、純粋なテレビ芸を追及する、その
芸人スピリットが、昨年タモリ倶楽部で放映された”ジョン・
ケージの譜面解説”のような世紀の傑作を生む。
あのときも書きましたが、あのような前衛作曲家の奇怪な譜面を
お笑いとして検証するなど、世界中のテレビを見渡しても
絶対にタモリ倶楽部にしか出来ないのである。母国アメリカでも
ジョンケージの譜面を解説するという番組を作る勇気のある
テレビマンは絶対にいない。数字が取れないから。

こういう知力に支えられた純粋テレビ芸の追及の後継者として
密かに水道橋博士に期待していたが、最近の子煩悩ぶりをみると
もう期待できない。

(談志は、笑点の成功でテレビ芸というのを確立した、と考えているふしがあるが、やはりあれだけの天才でも、舞台芸人は
テレビを理解できないのかなー、と思います。)

ひとりさんの脱糞伝説の話がでてましたが、なんだか最近脱糞
ブームです。
先週のイッテQ(月曜4ch内村のクイズ番組)で、オナラで音階を録音して曲を演奏するという企画で、よいこ浜口がオナラをしたら、勢い余って脱糞していました。
また今週の”はねる”で、スケートでこけたロバート山本が、
こけた勢いで脱糞してしまいました。

そしてそれぞれ、その脱糞事件が”軽く!”、あ、やっちゃったね、くらいのノリでかるーくながされたのです!
もう脱糞は事件でもなんでもないんですね。
ちなみに、以前ここの投稿で”脱糞って、そんなの起こりえるのか!”と疑問を呈していましたが、今年に入って私、2度ほど
脱糞しました。もう人間として終わりに差し掛かってきたようです。

ちなみにお笑い番組がいっせいに”スケート企画”にはしったのは、見るに耐えませんでした。あとイナバウワーを模して
回転マシーンを使うとか。
視聴者なめんなよ。

末広亭ですが、平日の夜ならいいんじゃないでしょうか。
ただし夜の部は5時からですが、私はどうしても6時半くらいに
なります、平日は。(よく知らないですが、高田の落語聴きたい
人ってそんなにいるの??)

末広亭、いきましょうよ。あそこは前売りとかやってたっけな?

丁度、談志全集第四期をツタヤで借りて、毎日談志を聞きまくっているのですが、あっしが言うのも差し出がましいですが、
やっぱ天才です。圧倒的な技量もさることながら、あの人は
落語という古典話芸がはじめてもった”自意識”でしょう。
小説で言うところの夏目漱石に近いというか、いや、”粋の構造”の九鬼周造に近いのかもしれない。
自意識(自己言及的自己認識)というのは、落語のような古典話芸では、もっとも忌み嫌われる”無粋”の極みみたいなもんだから、総すかんをくらったのもの無理はない。
”無粋”を百も承知であえて落語のために”現代”を選び取った
この天才に勝てる噺家は、あと100年は出ないのか。
しらんけど。

亀田くん:あえて”昭和”を選び取る変な少年、あまり大人に利用されないように気をつけたほうがいいと思う。

リンカーン:非常識チェック企画で、仕切りが小木矢作、スピードワゴン、次課長と交代していたが、小木矢作の仕切りが圧倒的に面白かった。ほんとこの一年小木矢作は腕を上げましたねー。
”小木○○”シリーズなんかも、○○に何を入れても面白いし、あれ鉄板ですね。(個人的には小木の間がお気に入りです。)

くりーむなんとかと、4chの内村のゆるいクイズ番組、時間帯が被ってますが、だんだんくりーむを見なくなって、4chの
ほうを見るようになって来ました。いつの間にか内村はゆるい系キングになってますね。(ゆるい系の永久名誉キングはタモリですが。所さんは、個人的にNGです。)

ブラマヨがガンガン出てきましたが、ちょっとバラエティ向きでは無い感じですね。ひな壇には不向きというか。つか、結局お笑いブームには間に合わなかった感が否めません。忘れられたM1
優勝者、というキャラになりそうな予感。

ちょいワルとか、エロかっこいいとか、キモかわいいとか、
もういいから。

昨日、雨だったので客いないかなと思い、劇場にいきましたが
満員でした。早めに行ったので座れましたが。

某有名映画評サイトでも高い星数を獲得していたので、少々期待してましたが、やはりいつもの”三谷もの”でした。
練られていてよく出来た脚本だとは思いますが(それだけでも
大したものだとは思いますが)、期待以上の感動は無いです。
(音楽で、よく出来てるんだけど、面白くないっていう場合と
同じような感じ。)
三谷ものって、着地点は決まってるので、どんなにトラブルが
起こっても安心して見れるんですよね。逆に言えばこの着地点に
対して、いっさい疑問を抱いていない(着地点に対しての批評
意識が無い)気がするんですよ、世界の自明性に疑いがないっ
つーか。

笑金:いつの間にかブラマヨが笑金ファミリーになってましたね。つってももう終わるんですね笑金。
いよいよお笑いブームも終焉に近づいてきたんでしょうか。

HeyHeyでの浜田が桜庭を”サク!サク!”と呼んでいたのが、非常に気がかりだった。
浜田の”ぞんざいな態度”というのは、確立された芸であり、
とくに権威があるとされているものや、高位のものに対して
”タメぐち、叩き、敬称省略”などの行為を連発することで
一般と権威、低位と高位の差異自体が”ボケ”である(故に
ボケに対してツッコミをいれている)という見事な批評を
確立したのであり、この業績は他の追従を許さないもの
である。(これは”王様は裸だ”警告機能のような安易な道徳的
批評ではなく、”差異自体”がボケだと認識させる、極めて
ラディカルな批評なのである。)

しかし、ダウンタウンが権威になってしまったために、浜田が
別ジャンルの若年タレントをぞんざいに扱うことで、これら
中途半端なタレント(細川茂樹、岩崎ひろみ等)に、逆に
権威の下駄をはかせてしまった(浜田のお墨付きが発行された)、という事態に初めて警鐘をならしたのは故ナンシーである。

これに加え、最近の浜田のぞんざいさは、差異への批評が
自家撞着に陥り、ただ単に差異の無効、差異の破壊を招く
だけになりがちなのである。
そもそもいかに”差異化”をはかるかが、タレント戦略の
命である。であるが故に現在のタレントは浜田といかに絡むか
あるいは絡まないかに関して、極めて戦略的にならざるを得ない
状況が発生している。
この戦略に今だ無自覚なのがスポーツ選手である。”格闘技の
カリスマ”が”サク!”呼ばわりされることで、カリスマ解除
されることにどれほどメリットがあるだろうか。桜庭は”おいしい”と思っているかもしれないが、浜田をなめてはいけない。
浜田の差異破壊力は思っている以上に強力である。
あの男、考えられへん!


2006年3月16日 (木)

PSE法のやつ

まーミュージシャンの皆様が怒りたち、抗議するのは大いに
結構なことだと思いますが、
坂本龍一が中心になって抗議声明を出しているというのが
どうにも引っかかる。
古い電子楽器等は、それぞれ”固有”の文化的価値を有している
という主張ですが。

そもそもYMOというのは、音楽がその”固有性”によって高い
芸術性を保持している(そしてその固有性が音楽のオーラに
なる)という幻想を打ち砕く為の音楽的企図であったはずです。
そもそも電子楽器は誰が弾いても同じ音を出す(つまり完全に
均一な倍音コントロールができる)楽器として登場し、音楽の
”固有性”を覆す革命性を保有していたことに眼をつけたのが
テクノポップミュージシャン達であったのです。
均一でチープな電子音で極端にチープな楽曲を演奏することで
音楽からオーラを剥ぎ取り、”固有性”幻想(つまりフェティシズム)を破壊し、ベルリンフィルのベートーベンも、マイルスの
トランペットも、YMOのライディーンも、”等価”なのだ、
という、高度な冗談を仕掛けたのがYMOだったはずです。
なぜ当時彼等が”ポップ”を自称したのかは、上記のように
”固有性=オーラ”の重みから音楽を開放し、”非固有性”の
軽やかさへと音楽を解き放った、と思われていたからです。
(だから坂本は浅田彰と共鳴したのです。)

その坂本が、音楽の”固有性”は文化だ、なんて主張し始める
なんて!冗談にもほどがあります。

上記、わたくしマジで書いているのですが、自分で書いてて
なんですが、このようにこの件での坂本の主張の矛盾を批評
している人が、現時点で私の知る限り誰もいない、というのは
どういうことなんだ、と思ってます。
誰か後から、同じ主張をし始めたら、この投稿のパクリと
お考え下さい。

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